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軍艦榛名 守護神の一生(艦内神社記事番外編)

公開日:2014年07月28日 カテゴリー:UPFG艦艇史料研究会, 聖地巡礼/舞台探訪, 艦これの話題 タグ:, ,

軍艦に艦内神社があったと言うことは前回の記事でお伝えしているが、今回は具体的に軍艦榛名の守護神についてその一生を追ってみたい。

(前回の記事)艦内神社の基礎知識

巡洋戦艦→戦艦榛名は名前の通り群馬県の榛名山に因み、竣工半年後の大正4年10月に榛名神社の祭神である火の神「火産霊神」と土の神「埴山姫神」を守護神として艦に奉祀していた。この神霊は神社神職惣代社司、同氏子総代を発起人として艦へと寄贈されたものである。
なお姉妹艦「金剛」は昭和10年時点で皇大神宮・明治神宮を奉祀、「比叡」は昭和3年11月に日吉神社奉祀、「霧島」は大正6年5月に霧島神宮を奉祀している。

昭和3年の榛名改装工事竣工の際(第一次近代化改装)、5月に艦長が榛名神社へ登山して祈願奉告祭を行い、7月に横須賀碇泊中の艦上で「巡洋戦艦榛名改装完了祝賀大祭典」が行われている。その際は榛名神社社司と社掌総代五名が神社から出張している。
その後昭和5年5月の横須賀港空と海の博覧会開催中に大祭典、昭和6年10月に榛名艦祝賀奉賓祭が行われており、この際にも神社から出張が行われている。

その後は実は資料がなく不明であるが、他の例から行くと昭和10~12年頃までは艦長が参拝したり艦に出張したりと、特に変わらない関係が続いていたのではないかと思われる。その後は行動が守秘になったり、活動が増えてきたりして神社との交流が少なくなっているケースが見られる。
また、昭和10年前半には金剛・比叡・陸奥に明治神宮も合祀されていたことがわかっており、もしかすると榛名にも合祀された可能性がある。
さらに、昭和15年11月に海軍諸令則「艦船部隊官衙學校等に於ける祭神奉斎に関する件」が出たことから、これ以降に天照大神(伊勢皇大神宮)を合祀したものと思われる。

昭和16年12月に太平洋戦争開戦。榛名の活躍については詳細は各自調べてもらうとして、最終的に金剛型四姉妹のうちではただ一人日本に帰り着き、69年前の今日、昭和20年7月28日の空襲で江田島の小用港にて大破着底し、その艦命を終えた。

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haruna2その後昭和21年に上部を解体し武装撤去、公式にはこれで解体完了だが船体部分はそのまま残り(全部やってるとGHQの指定作業完了日に間に合わなかった模様)昭和25年までにすべてが撤去されている。(左写真は昭和22年の榛名空撮)

船体としての榛名はこれでその役目を終えたのだが、実は榛名の守護神はそのときまだ江田島島内で生きており、いろいろと落ち着いた昭和30年7月30日に分霊元の榛名神社へと奉還されている。
下記は昭和48年に榛名会(軍艦榛名乗組員の会)の有志が製作した「護衛艦はるな」の就役記念アルバムに載っている記事(その後雑誌「水交」にも「軍艦榛名艦内神社始末記」として記載)で、守護神を榛名神社へと奉還した際の初代艦長の奉告文である。

奉告文
掛巻も畏き榛名神社大社の御前に旧軍艦榛名初代艦長正四位勲一等功四級舟越楫四郎謹み畏みて申さく

今は早や四十餘年の昔、神戸川崎造船所に於て建造せる巡洋戦艦に、上州の名山に因みて「榛名」と命名せられ、大正二年十二月進水の時より不肖其の建造艤装に任し、大正四年四月十九日竣工帝国軍艦籍に編入の日を以て初代榛名艦長拝命、翌五月初めて所管横須賀軍港に回航せり
六月五日大正天皇本鑑に臨幸、僚艦霧島及新進駆逐艦十隻を併せて御親閲あらせられ、翌六日には皇太子殿下行啓の光栄に浴せり

前記の如く「榛名」と命名せられたる結果、群馬県社榛名神社の御分霊を勧請奉祀本艦守護神となす事となり、不肖以下乗員代表士官八名を連れて、大正四年十月十日午前当本社に参拝し厳に祭儀執行の後、御霊代を拝受翌日帰京、次て、十月十二日午前横須賀軍港に於て総員出迎の裡に榛名に乗艦せられ豫め艦内に設けたる社殿に奉祀し、榛名神社と称し奉りて、爾来、日夕、乗員に参拝せしめ例大祭は勿論事ある毎に臨時祭典を営み奉謝祈念の誠意を尽せり

十月本艦伊勢湾に於て訓練中皇太子殿下(今上陛下)再び行啓数日を艦内に過させられ、艦内生活を御体験あらせらる
十一月大正天皇御即位式後不肖東郷元帥の快諾を得て聖諭五箇条の揮毫を請ひ乗員精神教育の資料とせり
かくて軍艦榛名は、御神護の下毎年艦砲射撃魚雷発射戦斗速転等あらゆる戦技に抜群の優績を挙げ帝国海軍主力艦中の花形として常に国防第一線の重任に当り、幾度か御召鑑たる光栄に浴し名声噴々たるものあり
歴代の艦長皆よく艦威の発揚に努め、屡々当御本社に参拝して神恩を感謝し、神護を祈念せり。
其後国際情勢に対応し、軍艦榛名は船体機関及兵装に大改修を加へ威力を増大し、船種を戦艦と改め高速戦艦として益々重任を帯ぷるに至れり。

昭和十六年十二月大東亜戦争勃発するや、高間完・石井敬之・森下信衛・重永主計の四氏相次いで榛名艦長の重責に任じ、南洋に、印度洋に、又南北太平洋に勇戦敢闘大に戦果を収め、僚艦の多くが外地海底の藻屑と消へ失せたるにも拘らず、榛名は無事内地に帰還し吉村真武最後の艦長として防戦これ努めたるも、昭和二十年七月二十八日呉軍港対岸江田島小用沖に於て被爆擱座の儘遂に三十年の艦命を終るに至れるは誠に痛惜に堪へず
然れども四年に亘る這次大戦中軍鑑榛名の打ち出せる弾丸はよく敵に命中し、敵の打ち出せる弾丸魚雷及爆弾は悉く榛名を外れ、幾度か死地に突入しながら奇蹟的に被害を免かれ、危機を脱し得たるは全て榛名大神御加護の賜物と乗員一同深く驚喜感佩措く能はざる処なり。

榛名鑑内の御霊代は総員退艦、江田島に退避の際吉村艦長之を捧持保護し、間もなく終戦となり総員解散の前日即ち昭和二十年八月二十三日同島の鎮守八幡神社宮司の快諾を得て之が保管を同神社に委托せり

爾後十年戦後の混乱も漸く収まり、這般の事情判明せるを以て、不肖等当初の奉祀関係者相図り、此際御霊代を御本社に奉還の議を決し、吉村艦長をして江田島八幡宮より之を迎へ奉り、四十年前参殿御分霊を拝受せし者奇しくも奉還の為め茲に又御霊代を捧持し、初代榛名乗組土官西川速水・作間応雄・山田満・原清及参戦艦長高間完・石井敬之・吉村真武の諸貝供奉して当榛名神社に参拝奉還の儀を執り行ひ、茲に過去数十年の長きに亘り軍艦榛名及乗員に賜りたる宏大無辺の御神護に対し奉り赤誠を披瀝して感恩奉謝の微意を表するを得たるは無上の光栄とする処なり

尚東郷元帥揮毫聖諭五箇条の扁額は昭和十九年三月軍艦榛名決戦を期し出撃前万一にも艦と運命を共にせざる様周到の注意を以て重永同艦長より不肖の許に返還し来れるが、在役三十年間御分霊に次いで榛名将士の軍人精神涵養に資せる思出深き記念品なるに付、茲に謹んで之を榛名神社に奉献し神恩感謝の表象とす

終りに臨み、平和己に克復国家再興の偉業着々進興中なるも世界の趨勢尚豫測を許さぬもの多し、仰ぎ願くは神霊不肖等の微哀を嘉納し給ひ我国家国民の上に更に尊き宏大なる御加護を賜はらん事を熱願し奉る

昭和三十年七月三十日

奉還があったという話は過去に歴史読本(2010/09 「艦内神社 艦に祀られた神々」)に載っており、ネット上にも奉還日が書かれている掲示板があったのだが、いかんせんそのソースが全く見つからず困りはてていた。そんな中、5月に九段下の昭和館図書室にあった雑誌「水交」内で「軍艦榛名艦内神社始末記」という記事を偶然発見したものである。

haruna1戦後10年間榛名の神霊が安置されていた江田島八幡宮には、拝殿内に榛名の写真が揚げてあったが、特にこの件の説明もなく、地元地誌や当時の新聞などにもこの件は見当たらなかった。
このような奉還の資料はほぼ唯一のものであり、太平洋戦争参加艦での元の神社への奉還例は榛名以外見つかっていない。(明治生まれの艦だと戦艦安芸・厳島、戦艦石見あたりが記録にある)

他にも、艦内神社の奉還はされていないが乗組員が自宅に祀った例や、沈没した付近の神社に安置された例などが見つかっている。戦後生き残った艦の艦内神社について、どうなったのか興味は尽きないのだが、こうした資料はめったに残っていないのが現状であり、戦後69年にもなりもうどうにもならない可能性のほうが高いのかなと半分諦めモードでもある。そもそもいまだに祀られてるものすら分からない艦まで居たりするのだが。

それでも、前回の記事から2ヶ月間でさらにいくつかの資料が発掘され、新たに判明した場所もある。そもそも今回の榛名奉還の件もソース発掘に実に10ヶ月を要している。とにかく地道に調査を進めるほか無いのでし…


・参考文献
千木の光 7号(1932/02 群馬県立図書館蔵)「榛名神社の神威と軍艦榛名の光栄」
軍艦榛名案内(戦前)
財務省広報誌ファイナンス(1973/11)艦艇解撤–旧日本陸海軍艦艇解体作業(戦後財政史)
雑誌「水交」(5-11 昭和館蔵)「軍艦榛名艦内神社始末記」
呉・戦災と復興 旧軍港市転換法から平和産業港湾都市へ 1997/呉市
世界制覇(上) 2000/講談社

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